大和思想 一章 「幸福」とは
先ほど説明したように、「『思想』と『その思想を持っている人の行動』と『その行動の結果起こること』の関連性」は、最終的には、人間の「幸福」にまでつながっています。
ですから、人間が「幸福」になるためには、「『幸福』になれる思想」を持って生きる必要があります。
ですが、「『幸福』になれる思想」とは、一体どのようなものなのでしょう?
それを知るためには、まず、「『幸福』とは、どのようなものか」を知る必要があります。
そこで、ここでは、「『幸福』とは、どのようなものか」を説明したいと思います。
「幸福」とは、「目で見るもの」ではありませんし、「耳で聞くもの」でもありません。
「幸福」とは、「本人が望む状況」「本人が欲するいくつかの『要素』が合わさった状況」において「感じるもの」です。
また、「幸福」とは、「本人が望む状況」「本人が欲するいくつかの『要素』が合わさった状況」において「感じるもの」なので、このことから、「『幸福』になる」とは、「『幸福だと思える状況』を手に入れること」だと言えます。
また、この「『幸福』だと思える状況」には様々なものがあります。
人間は、様々な状況において「幸福」を感じることができるので、「『幸福』だと思える状況」には様々なものがあるのです。
ですが、人間が「幸福」になるためには、必要不可欠な「要素」が一つあります。
それは、「『自分の尊厳が保たれていること(自分が価値ある存在、尊い存在として、認められ、大切にされていること)』によって得られる『精神的充足、安定』」です。
この「『自分の尊厳が保たれていること』によって得られる『精神的充足、安定』」こそが、人間が「幸福」になる上で必要不可欠な「要素」なのです。
人間は、「社会」をつくり、その中で生活する性質を持つ「社会的生き物」です。
人間は、その歴史が始まるずっと前から、「社会」をつくり、その中で生活してきました。
この「社会的生き物」の性質からでしょうが、人間は、「集団」において、「お前は必要ない」「不必要な存在だ」「お前のことなど、どうでもいい」と言われ、そのような扱いを受けていたら、つまり、「自分の『尊厳』が保たれていない状況(自分が『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされていない状況)」であったら、「幸福」を感じることはできません。
「家族」において、そのような状況であったら、「家族」において「幸福」を感じることはできません。
「地域社会」において、そのような状況であったら、「地域社会」において「幸福」を感じることはできません。
「友人の集まり」において、そのような状況であったら、「友人の集まり」において「幸福」を感じることはできません。
「会社」において、そのような状況であったら、「会社」において「幸福」を感じることはできません。
「国家」において、そのような状況であったら、「国家」において「幸福」を感じることはできません。
何らかの「集団」において自分の「尊厳」が保たれていなくても、別の「集団」において「尊厳」が保たれているなら、「幸福」を感じることは可能です。
例えば、「友人の集まり」や「会社」において、自分の「尊厳」が保たれていなくても、「家族」や「サークル」等において「尊厳」が保たれているなら、それが「心の支え」となるので、「幸福」を感じることは可能です。
ですが、「家族」「地域社会」「友人の集まり」「会社」「国家」、その他、自分が所属している全ての「集団」において、「お前は必要ない」「不必要な存在だ」「お前のことなど、どうでもいい」と言われ、そのような扱いを受けているなら、つまり、自分の「尊厳」が保たれていないなら、「幸福」を感じることは全くできないのです。
「自分の『尊厳』が全く保たれていない状況(誰からも『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされていない状況)」とは、言うなれば、「精神的に『孤独』な状況」です。
人間は「社会的生き物」の性質からだと思いますが、「精神的に『孤独』な状態」では、「幸福」を感じることはできないのです。
「孤独感」は、全ての人が持っている「感覚」ですが、人間は、極度の「孤独」には堪えられません。
どれだけ「裕福な人」でも、どれだけ「能力が高い人」でも、どれだけ「強い権力を持っている人」でも、極度の「孤独」には堪えられないのです。
たとえ多くの人と接していても、「みんなに嫌われている状況」「みんなにいじめられている状況」、また、実際はそうでなくても「『自分は孤立している』と思い込んでいる状況」といった、「精神的に『孤独』な状況」では、「幸福」を感じることはできないのです。
人間は、「『自分は完全に孤立している』という感覚」を強く持つと、やがて、「自分は何のために存在しているのだろう?」「生きている意味があるのだろうか?」「自分に『存在価値』はあるのだろうか?」と、極度の「孤独感」や「不安感」に襲われます。
そして、その「感覚」が強まると、最終的には「自殺」に至ることもあります。
世の中で起こっている多くの「自殺」の根底には、「自分は何の集団にも属していない」という感覚からくる「孤独感」や「不安感」があると言われているのです。
このように、人間は、「精神的に『孤独』な状況」では、「幸福」を感じることはできないのです。
つまり、「自分の『尊厳』が、全く保たれていない状況(誰からも『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされていない状況)」では、「幸福」を感じることはできないのです。
これらのことから分かるように、人間が「幸福」になるためには、「『自分の尊厳が保たれていること(自分が価値ある存在、尊い存在として、認められ、大切にされていること)』によって得られる『精神的充足、安定』」が必要不可欠なのです。
さて、人間が「幸福」になるためには、「『自分の尊厳が保たれていること』によって得られる『精神的充足、安定』」が必要不可欠なのですが、中には、「人間が『幸福』になるためには、物質的に満たされている必要がある」と言う人がいるかもしれません。
確かに、物質的に満たされることによって、心が満たされることがあるのは事実です。
ですが、世界には、ジャングルの奥地で、裸同然の姿で、物質的には全く豊かとは言えない生活を送っている先住民がいますが、彼らが、「『物質的に豊かでない』という理由で『不幸』を感じている」ということはありません。
それどころか、彼らは、「経済格差」や「『物質的に豊かになりたい』という欲求」等に苦しむことなく生活しています。
彼らは、「物質的な豊かさ」から生まれる「ストレス」を全く感じずに生活しているのです。
世の中には、自分は「大きな家」がなければ、「愛車」がなければ、「おいしい食べ物」が食べられなければ「幸福」を感じられないと言う人がいますが、人間は、それらがあるだけで「幸福」を感じられるわけではありません。
「大きな家」があっても一緒に暮らす「家族」がいなく、「愛車」があっても一緒に乗ってくれる「友人」がいなく、「おいしい食べ物」があっても一緒に食べる「仲間」がいなければ、「幸福」を感じることはできないのです。
また、いたとしても、「自分の『尊厳』が保たれていない状況(誰からも『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされていない状況)」であったら、「幸福」を感じることはできないのです。
このことからも分かるように、人間が「幸福」になるためには、「『自分の尊厳が保たれていること(自分が価値ある存在、尊い存在として、認められ、大切にされていること)』によって得られる『精神的充足、安定』」が必要不可欠なのです。
さて、このように、人間が「幸福」になるためには、「『自分の尊厳が保たれていること』によって得られる『精神的充足、安定』」が必要不可欠なのです。
ですから、このことから、「幸福」とは、「『自分の尊厳が保たれていることによって得られる精神的充足、安定を得ている状況』において、感じることができるもの」のことだと言えます。
人間は、この「精神的充足、安定」を得ている状況を基に、さらに物質的に豊かになり、「地位」や「名声」を得、自分が望んでいることを実現させることにより、より大きな「幸福」を感じることができるのです。
逆に、この「精神的充足、安定」を得ていなければ、どれだけ物質的に豊かになり、「地位」や「名声」を得、自分が望んでいることを実現させても、本心から「幸福」を感じることはできないのです。
あなたが、今までの人生の中で、最も「幸福」を感じたのはいつですか?
そのときのことを思い出してください。
そのとき、あなたの「尊厳」は保たれていた(あなたは『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされていた)はずです。
たとえ、直接「あなたの価値を認める」と言われていなかったとしても、また、直接「大切にする行動」をされていなかったとしても、「あなたの『尊厳』が全く保たれていない状況(誰からも『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされていない状況)」ではなかったはずです。
人間が「幸福」になるためには、そのときのような、「『自分の尊厳が保たれていること』によって得られる『精神的充足、安定』」が必要不可欠なのです。
「幸福」とは、そのときのような、「『自分の尊厳が保たれていること(自分が価値ある存在、尊い存在として、認められ、大切にされていること)によって得られる精神的充足、安定を得ている状況』において、感じることができるもの」のことなのです。
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