大和思想 二章 「多様な人間」と共存する必要性について
「大和思想」は、「世の中の全ての人と共に『幸福』になること」を「目的」に設定していますが、人間が「幸福」になるためには、「『多様な人間』と共存して生きていく」必要があります。
人間が「幸福」になるためには、「人間社会」は「いい状態(全ての人が『幸福』を感じられる状態)」である必要がありますが、「人間社会を『いい状態』で存続させる」ためには、「多様な人間」が必要になります。
世の中には、自分と違う「考え」の人に対して否定的で、その人を理解しようとしなかったり、その人の「価値」に目を向けようとしなかったりする人がいます。
ですが、同じような「考え」の人からは、同じような「アイディア」しか生まれないので、もし、世の中に同じような「考え」の人しかいなかったら、人間は、「幅の広い活動をすること」「様々な出来事に対処すること」「『大きな目的』を実現させること」等ができません。
そして、それらができないので、「人間社会を『いい状態』で存続させること」ができません。
経営学者の P.F.ドラッカーは、次のように言います。
「社会が健全であるためには、そのリーダー的な地位にある者たちが『多元的』であって、『異なる価値観』『異なる優先順位』『異なる方法論』を持たなければならない。常にそこには代わりとなるべき『複数のもの』『複数のキャリア』『複数の視点』『複数の行き方』がなければならない。さもなければ、すべては画一的となり変革の能力を失う。変革の必要が生じたとき、リーダー的な地位にある者たち全員が当然とすること以外は、考えもつかないことになる」
つまり、「社会」や「組織」を「発展させるため」「様々な『状況』や『環境』の変化に対応させるため」には、つまり「人間社会を『いい状態』で存続させるため」には、「多様な感性」「多様な考え」が必要になるのです。
そして、それらは、必要になったときに都合よく得られるわけではないので、それらが必要になる前から、「多様な人間」の存在を認め、彼らを受け入れ、彼らを育てる必要があるのです。
つまり、「人間社会を『いい状態』で存続させる」ためには、「『多様な人間』と共存して生きていく」必要があるのです。
また、人間が「幸福」を感じて生きていくためには、日々の生活の中に、「娯楽」等の「楽しいと思えるもの」や「楽しいと思える出来事」がたくさんあった方がいいですが、それらをたくさん存在させるためにも「多様な人間」が必要になります。
同じような「感性」の人が言う「冗談」は、どれも大体同じですし、同じような「考え」の人が考えだす「遊び」や「娯楽」も大体同じです。
また、世の中に、同じような「感性」や「考え」の人しかいなかったら、毎日の生活が、「驚き」や「発見」のない単調なものになってしまいます。
つまり、世の中に、同じような「感性」や「考え」の人しかいなかったら、世の中は、「楽しいと思えるもの」や「楽しいと思える出来事」があまりない、「つまらない状態」になってしまうのです。
一人の人間が生み出す「アイディア」には、量的に限界があります。
同じような「感性」の人が生み出す「アイディア」には、「多様性」に限界があります。
ですから、世の中に「楽しいと思えるもの」や「楽しいと思える出来事」をたくさん存在させるためには、「多様な人間」が必要になるのです。
このことからも、人間が「幸福」になるためには、「『多様な人間』と共存して生きていく」必要があると言えるのです。
また、人間が「幸福」になるためには、「『自分の尊厳が保たれていること(自分が価値ある存在、尊い存在として、認められ、大切にされていること)』によって得られる『精神的充足、安定』」が必要不可欠ですが、「常に、自分の『尊厳』を保つ」ためには、「常に、誰とも『対立』していない」必要があります。つまり、「『多様な人間』と共存している」必要があります。
もし、「『多様な人間』と共存していない」としたら、それは、「『多様な人間』と『対立』している」ということです。
また、「『多様な人間』が『対立』している」ということは、世の中の全ての人が、「いつ、『争い』に巻き込まれるか分からない状況」にあるということです。
世の中が「対立」ばかりで、「いつ、『争い』に巻き込まれるか分からない状況」であったら、「精神的充足、安定」が得られないので、「幸福」を感じることはできません。
ですから、このことからも、人間が「幸福」になるためには、「『多様な人間』と共存して生きていく」必要があると言えるのです。
さて、これらのことから分かるように、人間が「幸福」になるためには、「『多様な人間』と共存して生きていく」必要があるのです。
人は得てして、自分と違う「感性」や「考え」や「能力」を持っている人に対して否定的になりがちですが、「自分と違う『感性』を持っている」ということは、「自分には思い付かない『アイディア』や『観点』を持っている」ということですし、「自分と違う『考え』を持っている」ということは、「『客観性を得ること』や『自分が知らないことを学ぶこと』ができる」ということです。
また、「自分にない『能力』を持っている」ということは、「『自分にはできないこと』ができる」ということです。
ですから、本当は、自分と違う「感性」や「考え」や「能力」の人こそ、「幅の広い活動」を行ない、「様々な出来事」に対処し、「大きな目的」を実現させるためには必要な存在なのです。
「経済」「科学」「学問」等は、様々な「感性」や「考え」や「能力」の人が、それぞれの立場から研究し、議論し、活動に取り組むからこそ発展します。
「文学」「美術」「音楽」等の「文化」も、様々な「感性」や「考え」や「能力」の人が、自分の「感性」に従って追求するからこそ発展します。
そして、「人間社会」も、様々な「感性」や「考え」や「能力」の人がいるからこそ発展し、「いい状態」で存続するのです。
「人間社会」は、「多様な人間」がいるからこそ、「いい状態」で存続できるのです。
そして、「人間社会」が「いい状態」で存続するからこそ、人間は、常に「幸福」を感じることができるのです。
ですから、このことから、「人間が『幸福』になるためには、『多様な人間』と共存して生きていく必要がある」と言えるのです。
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