大和思想 五章 「優先順位の一番」を「世の中全体」にしている(自己犠牲の精神を持っている)
※ここで言う「『優先順位の一番』を『世の中全体』にしている」とは、「『共存共栄の世の中を維持、つくりだすこと』を『最優先のこと』としている」「『自分のこと』よりも、『自分の家族のこと』よりも、『自分が所属している友人の集まりのこと』よりも、『自分が勤めている会社のこと』よりも、『自分が所属している国家のこと』よりも、『世の中全体のこと』を優先させて行動している」という意味です。
また、「『優先順位の一番』を『世の中全体』にしている」とは、「『自己犠牲の精神』を持っている」ということでもあります。
「『自分のこと』や『自分が関わっている全体のこと』よりも『世の中全体のこと』を優先させている」のですから、それは、「『自己犠牲の精神』を持っている」ということでもあるのです。
「大和思想を実践している人」は、「優先順位の一番」を「世の中全体」にしています。
「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持する」ためには、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「世の中全体」にする必要があります。
もし、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分」にしていたら、世の中の全ての「人」が「対立」することになります。
また、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分の家族」にしていたら、世の中の全ての「家族」が「対立」することになります。
また、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分が所属している友人の集まり」にしていたら、世の中の全ての「友人の集まり」が「対立」することになります。
また、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分が勤めている会社」にしていたら、世の中の全ての「会社」が「対立」することになります。
また、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分が所属している国家」にしていたら、世の中の全ての「国家」が「対立」することになります。
このように、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分」や「自分が所属している全体」にしていたら、世の中の全ての「人」や「全体」が「対立」することになるのです。
つまり、「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持すること」ができなくなるのです。
「『自分』や『自分が関わっている全体』を優先させる」ということは、「『世の中の秩序』を乱してでも『自分』や『自分が関わっている全体』を優先させる」ということです。
ですから、世の中の多くの人が「優先順位の一番」を「自分」や「自分が関わっている全体」にしていたら、「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持すること」はできなくなるのです。
このことから分かるように、「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持する」ためには、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「世の中全体」にする必要があるのです。
ですから、「大和思想を実践している人」は、「優先順位の一番」を「世の中全体」にしているのです。
さて、三章で説明したように、「全体をまとめる」ためには、「全体を構成する全ての人」が、「優先順位の一番」を「全体」にする必要があります。
ですから、世の中の全ての人は、普段の生活の中で、様々な「全体」と関わっていますが、それぞれの「全体」においては、「優先順位の一番」を「その全体」にする必要があります。
つまり、「家族」においては「優先順位の一番」を「その家族」にし、「友人の集まり」においては「優先順位の一番」を「その友人の集まり」にし、「会社」においては「優先順位の一番」を「その会社」にし、「国家」においては「優先順位の一番」を「その国家」にする必要があります。
このように、全ての人は、どのような「全体」においても、「その全体をまとめる」ために、「優先順位の一番」を「その全体」にする必要があるのですが、単純に、このままだと、先ほど説明したように、世の中の全ての「全体」が「対立」することになります。
ですが、世の中の全ての人が「優先順位の一番」を「世の中全体」にすれば、この問題を解決することができます。
「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持する」ためには、世の中を「一つの全体」として見ることが重要です。
つまり、「『世の中』は一つの大きな『全体』で、その中に『家族』『友人の集まり』『会社』『国家』等様々な『全体』が、『世の中の一部分』として存在している」という見方をすることが重要です。
このような見方で「共存共栄の世の中」を見ると、「『世の中』は『共存共栄の世の中』で、その中に『家族』『友人の集まり』『会社』『国家』等様々な『全体』が、『共存共栄の世の中の一部分を担っている状態』で存在している」ことが分かります。
そして、このことを踏まえて、「優先順位の一番」を「世の中全体」にすると、「全体をまとめること」が、「全体を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その全体の目的を実現している状態』にすること」になります。
「家族をまとめること」は、「家族を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その家族の目的を実現している状態』にすること」で、「友人の集まりをまとめること」は、「友人の集まりを『共存共栄の世の中を維持しつつ、その友人の集まりの目的を実現している状態』にすること」で、「会社をまとめること」は、「会社を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その会社の目的を実現している状態』にすること」で、「国家をまとめること」は、「国家を『共存共栄の世の中を維持しつつ、その国家の目的を実現している状態』にすること」になるのです。
ですから、「優先順位の一番」を「世の中全体」にすれば、どの「全体」を優先的にまとめても、「『共存共栄の世の中』を乱してしまうこと(他の『全体』と本質的な部分で『対立』すること)」はないのです。
それどころか、「家族」「友人の集まり」「会社」「国家」、その他、どのような「全体」を「まとめる」ための「働きかけ」をしても、それは、「『共存共栄の世の中』を維持、つくりだす働きかけ」になるのです。
ですから、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「世の中全体」にすれば、世の中の全ての「全体」を、「対立」させることなく「まとめること」ができるのです。
「優先順位の一番」を「世の中全体」にしなかったら、「『普段自分が関わっている全体をまとめる』ための働きかけ」をすればするほど、他の「全体」と「対立」することになりますが、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「世の中全体」にすれば、世の中の全ての「全体」を、「対立」させることなく「まとめること」ができるのです。
ですから、「大和思想を実践している人」は、「優先順位の一番」を「世の中全体」にしているのです。
さて、このように、「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持する」ためには、世の中の全ての人が「優先順位の一番」を「世の中全体」にする必要があるのですが、そうは言っても、場合によっては、「優先順位の一番」を「世の中全体」にするのが難しいと思うことがあります。
世の中の全ての人は、普段の生活の限られた時間の中で、「家族」「友人の集まり」「会社」「国家」等の、普段自分が関わっている「全体」をまとめなければならないので、どうしても身近な「全体」に意識が向き、「世の中全体」を「優先順位の一番」にするのが難しくなるのです。
ですが、実際は、「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ためにこそ、「優先順位の一番」を「世の中全体」にする必要があります。
例えば、「経済混乱」や「戦争」等がある、世の中が混乱しているときに、「家族」「友人の集まり」「会社」「国家」等を「まとめる」のは非常に困難です。
なぜなら、「家族」「友人の集まり」「会社」「国家」等の「全体」は、「『世の中全体』に含まれる全体」なので、世の中が混乱しているときに、それらを「まとめる」のは非常に難しいのです。
逆に、世の中が「まとまっている状態(共存共栄の世の中)」であれば、「個人」と「個人」、「全体」と「全体」は本質的な部分で「対立」していないので、その中で、「家族」「友人の集まり」「会社」「国家」等の「全体」を「まとめる」のは、それほど難しくないのです。
つまり、誰でも身近な「全体」に意識が向き、それを優先的に考えがちですが、実際は、「身近な『全体』をまとめる」ためにこそ、「優先順位の一番」を「世の中全体」にし、「世の中全体」を優先的に「まとめる」必要があるのです。
世の中が混乱しているときに、世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「自分」や「自分が関わっている全体」にしていたら、「混乱」が深まるだけで、世の中は、いつまでたってもまとまりません。
そして、世の中が、いつまでも「まとまらない」ので、結局は、「自分が関わっている『全体』をまとめること」もできないのです。
このように、誰でも、身近な「全体」を「優先順位の一番」にしがちですが、実際に「普段自分が関わっている『全体』をまとめる」ためには、「優先順位の一番」を「世の中全体」にする必要があるのです。
「大和思想を実践している人」は、このような理由からも、「優先順位の一番」を「世の中全体」にしているのです。
さて、このように、「大和思想を実践している人」は、「優先順位の一番」を「世の中全体」にしているのです。
世の中の全ての人が「優先順位の一番」を「自分」や「自分が関わっている全体」にしていたら、世の中の全ての「人」や「全体」が「対立」することになるので、「『共存共栄の世の中』を実現させ、維持すること」はできないのです。
世の中の全ての人が、「優先順位の一番」を「世の中全体」にするからこそ、全ての「全体」を、「対立」させることなく「まとめること」ができるのです。
ですから、「大和思想を実践している人」は、「優先順位の一番」を「世の中全体」にしているのです。
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