私は、「共存共栄の世の中」を実現させるためには、「経済や社会の『発展』より『安定』を優先させること」を国際ルールにする必要があると考えています。
つまり、「共存共栄実現プロジェクト2」で説明した、「『共存共栄』のために必要な社会の条件」を維持できる範囲内で、経済や社会を「発展」させることを、国際ルールにする必要があると考えています。
つまり、「人間、動物、植物等、『世の中に存在する全ての生物』が共に生き、共に栄える世の中」「『世の中に存在する全ての生物』の『尊厳』が保たれている世の中(全ての生物が、『価値ある存在』『尊い存在』として、認められ、大切にされている世の中)」「戦争がない」「犯罪が少ない」「いじめが少ない」「自殺者が少ない」「病死、事故死が少ない」「交通事故が少ない」「失業率が低い」「貧困率が低い」「衣、食、住等の、生活に必要なものが行き渡っている」「子供からお年寄りまで、全ての人が、健康に安全に暮らせる環境である」「教育が行き届いている」といったことを維持できる範囲内で、経済や社会を発展させることを、国際ルールにする必要があると考えています。
国連では「持続可能な開発」をうたっていますが、具体的な取り組みの中には、矛盾するものがあります。
「持続可能な開発」という題目は素晴らしいのですが、具体的な取り組みの中には、経済や社会を「発展」させようとするものと、「安定」させようとするものがあるのです。
ですが、経済や社会を「発展させること」と「安定させること」は両立できない場合があります。特に今の世界においては、それらは両立できていません。
自由経済、自由貿易は世界に広がり、金融経済は大きくなりました。
また、科学技術の発達により、便利に快適に暮らせる社会になりました。
ですが、世界的に貧困が増え、格差が広がり、飢餓はなくならず、犯罪もなくならず、環境が破壊され続けているのが今の世界なのです。
なぜ、このような状況になっているのかというと、それは、今の世界は、経済や社会の「安定」より、「発展」を優先させているからです。
経済や社会の「安定」を無視して、それらを「発展」させているからです。
「発展」を優先させると、必然的に「安定」は犠牲になります。
ですから、今の世界には、様々な問題があるのです。
世の中には、「経済や社会が発展すれば、幸福になれる」と言う人がいますが、彼らは、何を根拠に、そう言うのでしょう?
アメリカは、世界第一位の経済大国ですが、2021年にアメリカで起きた殺人事件の件数は、13,537件、強盗は121,373件と、非常に多いです。 ※「外務省 海外安全ホームページ」より
人口10万人当たりの殺人事件の発生件数は、日本の約6倍、強盗は、日本の約40倍です。
アメリカは、世界で最も経済的に発展している国ですが、殺人や強盗の被害に遭って苦しんでいる人、また、その治安の悪さから、不安やストレスを抱えて苦しんでいる人が、たくさんいるのが実情なのです。
また、日本におけるそれらの発生件数は、アメリカより少ないですが、日本の場合、年間の自殺者数が、先進国(G7)の中で、最も多いです。
自殺する人が多いということは、それほどのストレスを抱えて苦しんでいる人が、たくさんいるということです。
日本も世界有数の先進国ですが、それでも、自殺するほどのストレスを抱え、苦しんでいる人が、たくさんいるのです。
このようなことから、「『経済や社会の発展=幸福』ではない」ということが分かると思います。
また、逆のことからも、同じことが言えます。
世界には、ジャングルの奥地で、裸同然の姿で、物質的には全く豊かとは言えない生活を送っている先住民がいますが、彼らが、「物質的に豊かでないという理由で『不幸』を感じている」ということはありません。
それどころか、彼らは、「経済格差」「『物質的に豊かになりたい』という欲求」「競争社会のストレス」等に苦しむことなく生活しています。
彼らは、「物質的な豊かさ」から生まれるストレスを、全く感じずに生活しているのです。
このことからも、「『経済や社会の発展=幸福』ではない」ということが、分かるのではないでしょうか。
そもそも、国家の目的の本質は、国家を構成する全ての人の衣・食・住の確保や、治安の維持といった、「国民の生活の安定」のはずです。
「国家を構成する全ての人が、安心、安全に暮らせること」が根本的に重要であり、その状態を維持しつつ「発展」させるのが、国家のあるべき姿だと、私は考えています。
現在の国際政治においては、常に、「経済や社会が、どれだけ発展したか」が語られ、また、「発展すること」こそが重要であるかのように語られていますが、その発展が、多くの人の犠牲の上に成り立っているようではいけません。
それは、「人権」や「人間の尊厳」を無視する行為ですし、「世界人権宣言」を無視する行為でもあるのです。
国民の生活を犠牲にし、社会の安定を無視して経済や社会を「発展」させれば、短期間で、それらを「発展」させることができるのかもしれません。
ですが、そのようなことは、認められるべきではないのです。
世界の全ての人は、「社会を構成する一員」「社会を支える重要な存在」です。
ですから、世界の全ての人は、大切に扱われるべきであり、決して邪険に扱われるべきではありません。
また、そのことから、世界の全ての人には、「幸せを感じることができる、安心、安全な社会で暮らす権利」「幸せを感じることができる、安心、安全な社会を求める権利」があると、私は考えています。
このようなことから、私は、経済や社会の「発展」よりも、「安定」を優先させるべきだと考えています。
そして、このことから、「経済や社会の『発展』より『安定』を優先させること」を国際ルールにすることを提案しています。
さて、「経済や社会の『発展』より『安定』を優先させる」と言うと、中には、「経済が停滞してしまうのではないか?」と心配する人がいるかもしれません。
ですが、そのようなことは、全くありません。
1980年代から、「生産性」が劇的に向上し、世界的に「需要量」と「供給量(生産量)」が逆転し、「需要量」より「供給量(生産量)」の方が多い時代になりました。
それから40年が経ち、現在は、すでに2024年です。
この間、科学技術は格段に進歩し、「生産性」も、当時とは比較にならないほど高まりました。
つまり、現在は、「受容量」より「供給量(生産量)」の方が、圧倒的に多い時代なのです。
このような現代においては、経済や社会の「安定」を優先させても、経済が停滞してしまうことは、全くないのです。
現在は、「受容量」より「供給量(生産量)」の方が、圧倒的に多いのですが、それでも世界は、いまだに、経済や社会の「発展」を優先させています。
そのため、現在でも世界的に貧困が増え、格差が広がり、飢餓はなくならず、犯罪もなくならず、環境破壊が進み、先進国でも凶悪犯罪に苦しんでいる人、自殺するほどのストレスに苦しんでいる人が、たくさんいるのです。
「需要量」より「供給量(生産量)」の方が圧倒的に多いのに、多くの人の生活を犠牲にしてまで、それらを「発展」させるのは、正しい判断なのでしょうか?
それは、明らかに間違っているのです。
現在は、「需要量」より「供給量(生産量)」の方が、圧倒的に多いのですから、経済や社会の「安定」を優先させるべきなのです。
つまり、「共存共栄実現プロジェクト2」で説明した、「『共存共栄』のために必要な社会の条件」を維持できる範囲内で、経済や社会を「発展」させるべきなのです。
私は、このような考えから、「共存共栄実現プロジェクト3」として、「経済や社会の『発展』より『安定』を優先させること」を国際ルールにすることを提案しているのです。
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