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「自由」について

大和思想 一章  「自由」について


「自由」という言葉には、いい響きがあります。「言論の自由」「選択の自由」「自由な考え」「自由な生き方」。

 全ての人は「自由」であるべきですし、「自由」のない人生などは苦痛でしかありません。

 特に、極端に「自由」が制限されている中で、生きていかなければならないとしたら、それは苦痛以外の何でもありません。


 多くの人は、このように考えていますし、私も全くそのとおりだと思います。

 ですが、この「自由」とは、あくまで「『ルール』の中における自由」のことであって、「無制限の自由」のことではありません。



「無制限の自由」など、世界中どこを探しても存在しませんし、するはずもありません。


 それはなぜでしょう?


 それは、人間が「社会的生き物」だからです。


 人間は、「集団」や「社会」をつくり、その中で生活する性質を持つ「社会的生き物」なので、様々な「集団」や「社会」をつくります。

 この「集団」や「社会」は、一定の秩序を保つ必要があるので、何らかの「ルール」を必要とします。

 そして、「集団」や「社会」を構成する人は、その必要性から、何らかの「ルール」をつくり、その「ルール」に従って「集団」や「社会」を運営します。


 このように、全ての「集団」や「社会」は、一定の秩序を保つ必要があるので、「集団」や「社会」には、必ず「ルール」があるのです。

 つまり、世の中には様々な「集団」や「社会」が存在していますが、「『集団』や『社会』が存在している」ということは、イコール、「それらは、それぞれの『ルール』を持って存在している」ということなのです。

 ですから、世の中には、「無制限の自由」など存在しないのです。

 人間が「社会的生き物」である以上(「社会」の中で生活している以上)、世界中どこを探しても存在するはずがないのです。



 さて、人間は「社会」の中で生活しているので、世の中には「無制限の自由」どころか、いたるところに「ルール」があります。


「国家」には、もちろん「ルール」がありますし、「会社」や「学校」にもそれぞれの「ルール」があります。

 また、「電車」や「バス」を利用するときにも、そこには「ルール」があります。


 このように、世の中には、いたるところに「ルール」があるのですが、世の中には、「『ルール』に従うこと」を非常に嫌う人がいます。

 ですが、もし、「集団」や「社会」に「ルール」がなかったらどうなるのでしょう?


 例えば、「交通ルール」がなかったらどうなるでしょう?

「車線」も「信号」も「速度制限」もない、「交通ルール」が全くない状況では、どのようなことが起こるでしょう?

「交通量が多い地域」では何が起こるでしょう?「交差点」や「長い直線道路」では何が起こるでしょう?

 果たして、そのような状況で、「目的地」まで、早く、安全に辿り着くことができるのでしょうか?

 それは、不可能だと言わざるを得ません。そのような状況では、いたるところで、事故や渋滞が起こるのは間違いありません。


 つまり、交通の秩序を保ち、車の流れをスムーズにし、誰もが「目的地」まで、早く、安全に辿り着けるようにするためには、「交通ルール」が必要になるのです。

 そして、全ての人が、「交通ルール」に従う必要があるのです。


 また、「国家」には、「法律」という「ルール」がありますが、もし、「法律」がなかったら、どうなるでしょう?

「法律」がなかったら、全ての人が思い思いに行動するので、「国家」の秩序は保てません。

 また、「法律」があったとしても、多くの人が「法律」を無視していたら、やはり「国家」の秩序は保てません。

 世界には、様々な理由で秩序が保たれていない「国家」(「犯罪」が多い国)がありますが、それは、「多くの人が『法律』を無視している」ということなのです。


 このことから分かるように、「国家」の秩序を保つためには、「法律(ルール)」が必要になるのです。

 そして、その「国家」を構成する全ての人が、その「法律(ルール)」に従う必要があるのです。


 また、人が二人以上集まって行動を共にするだけでも「ルール」は必要です。

「一緒に食事をする」「会話を楽しむ」「協力して生きていく」、その他どのようなことをする場合でも、複数の人が行動を共にするときには、そこには、必ず、何らかの「目的」がありますが、その「目的」を実現させるためには、その「集団」の秩序を保ち、その活動(行動)を円滑に進める必要があります。

 そして、そのためには、「ルール」や「ルール」というほどのものではなくても、何らかの「決まり」「暗黙のルール」のようなものは必要になります。


 たとえ、「気遣いをする」「相手が嫌がることはしない」程度の「決まり」「暗黙のルール」のようなものでも、それがなければ、その「目的」を実現させることはできないのです。

 また、「ルール」があったとしても、それぞれが「ルール」を無視し、無制限に「自由」に行動していたら、「全体のまとまり」が得られなくなるので、やはり、その「目的」を実現させることはできないのです。


 このことから分かるように、人が二人以上集まって行動を共にするだけでも、必ず、何らかの「ルール」が必要になるのです。

 そして、その「集団」を構成する全ての人が、その「ルール」に従う必要があるのです。



 さて、これらのことから分かるように、「集団」や「社会」の秩序を保つためには、「ルール」が必要になるのです。

 そして、その「集団」や「社会」を構成する全ての人が、その「ルール」に従う必要があるのです。


「人間社会」の秩序を保つ場合も同じで、そのための「ルール」が必要になりますし、「人間社会」を構成する全ての人が、その「ルール」に従う必要があるのです。


 ですから、世の中には「『ルール』に従うこと」を非常に嫌う人がいますが、人間が「社会的生き物」である以上は(「社会」の中で生活している以上は)、このことに関しては、「世の中とは、そういうものだ」と受け入れるしかないのです。

 人間は「社会的生き物」なので、「世の中には『無制限の自由』など存在しない」ということは、全ての人が理解しなければならないことなのです。


 人によっては、それでも、無制限に「自由」に行動したいと思うかもしれません。

 ですが、もし、普段自分が関わっている「家族」「友人の集まり」「学校」「会社」「国家」「世界」等に、何の「ルール」もなかったら、また、あったとしても、その「集団」や「社会」を構成する全ての人が「ルール」を無視して行動していたらどうなるのでしょう?


 何の「ルール」もなく、また、あったとしても、全ての人が「ルール」を無視して行動していたら、それらの秩序は確実に乱れます。

 そして、その「集団」や「社会」を構成する全ての人が、そこから「ストレス」を受け、苦しみ、誰一人「幸福」を感じられなくなるのです。


「自由」「自由」と言って「無制限の自由」を求めながら、同時に「秩序のある社会」を求めるのは矛盾です。

「無制限に『自由』に行動すること」と「『秩序のある社会(幸福を感じられる社会)』を維持すること」は、両立し得ないのです。


 私達は「自由」という言葉の魔力から覚め、「人間が『幸福』になるためには、『個人の自由』より『全体のまとまり』を優先させる必要があること」を理解しなければならないのです。


 人間が「幸福」になるために必要なのは「自由」ではありません。

 人間が「幸福」になるために必要なのは「ルール」です。


「世の中の全ての人が『幸福』になれるルール」をつくり、世の中の全ての人がそれに従って生きる。

 そうすることによってのみ、世の中の全ての人が「幸福」になれるのです。


続きを読む ⇒ 大和思想 一章  まとめ

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